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日本の現代美術はどのようにしたら欧米から独立できるのか

日本の現代美術はどのようにしたら欧米から独立できるのか?
私は、地方の住まいで若手アーティストの展覧会を開催することで独立できると考える。

日本で現代美術と呼ばれている美術ジャンルは、日本の文化では全くなく、欧米の富裕層が私たちの意見を一切反映せず勝手にラベリングしたものでしかないのではないだろうか。

そんなものを「これが今をときめく日本の現代美術作家の作品です!」と言われても、「はあ...(現代美術ってよくわからないな...)」という反応が日本の人々から帰ってくるのは当然である。そもそも、それは日本国内で確立された美術ジャンルでは全くなく、日本人現代美術作家の主要作品の大半が海外の美術館やコレクターに所有され尽くされている状態だ。

明治時代に「美術」が輸入されたと言われているが、それは決して過去形ではなく、今もなお「美術」は「現代美術」に姿を替え輸入され続けている。現代美術作家として脚光を浴び活動を続けるためには、欧米で実績を挙げなければならない。つまり、「欧米」の価値観に準拠するという選択肢が、現代美術作家として生きていく方法として未だ色濃く残っているのが現実だ。

日本の現代美術文化は、未だに、米国を中心とした欧米の価値観から全く独立できていない。

その一つの証拠として、毎年大量に美術大学から排出される若手アーティストの活動困難が挙げられる。

欧米の価値観に基づく「現代美術」の作り方を叩き込まれ社会へ放り出された学生達は、そのスキルを通じて生計を立てる難しさを知ることになる。そもそもの需要と環境が無い中、無計画に生み出された技術者だ。魚アレルギーの住人しかいない山村の学校で4年もかけ漁の技術を子ども達へ必死に教える様なものだ。

日本の人々の本質的な感覚から理解し難い品が大量に生産され、欧米で印籠を渡されたばかりにそれが価値ある物として日本国内へ流通する(もちろん、100%の作品が理解し難いものであるとは思わない)。

けれども、そういった事実に対する強制的な合意を求められた時、人は「海外で人気なんだー」「東京で人気らしいねー」という、作品に対する思考停止状態に陥る。地方は特にそういった印象が強い。百貨店だけでなくギャラリーのスタッフでですら「東京で人気のお品物なんですよ」と薦めてくる。そのものの価値をきちんと共有できていない本部の責任でもあるが、理解したいという気持ちを刺激する影響力がなければそもそも価値の無い作品だったのだなと私は思う。

とある地方地域に、大型ショッピングモールが進出した。
1〜2年で地元商店街はシャッター街と化した。
5年後、採算が取れなくなった大型ショッピングモールは撤退、
その地域に住む人々はビスケットを一箱買うのにも車で片道40分走らなければならなくなった。

自分たちが売っている物に対する認識と、自分たちが買っている物に対する理解が失われることで、コミュニティはあっと言う間に疲弊し、物理的、あるいは状況的に限界集落へと姿を変える。

現代美術に関しても同様のことが言える。

日本で暮らす人々の声に耳を貸さず、メディア越しに発信される現代美術のトレンドやゲームルールに則り作品を制作し続けることは、日本の現代美術の芽を破壊する行為と同じかも知れない。そのスタイルはあくまでも欧米の人々が自国の文化的土壌から生み出したスタイルであって、四季の激しい島国気質にはどうしたって拒絶反応を引き起こす傾向があるのだと思う。

みんなが言いと言うものがいい。

と書くと、欧米や東京の価値観を丸呑みするのと何も変わらないかもしれないが、ここで言うみんなとは、同じコミュニティに所属する「みんな」を指す。

2000年代に入ってから、田舎を出て東京へ行く、世界を目指す、といった考え方がすり切れてきたように感じる(経営においてはグローバル展開が最重要課題ではあるものの、その感覚へ労働者がどこまでついてゆけているかは心もとない)。地元志向も年々高まっていると聞く。若者のシェアハウスが生活の現実的な選択肢の一つとして確立された近年、地方地域などのエリアでの「住み開き」や「ギークハウスプロジェクト」などの新しい暮らしの形も誕生した。

とにかく外へ外へと動いていた日本人の心境が今大きな反動を起こし、
内へ内へ、家の中へと変化してきているように思う。

そこで生まれるコミュニケーションは説教や失態、情動の共有など他者との密接な関係のもと形作られている。スペースによっては交流食事会や勉強会を開催し、これからの暮らしのあり方や環境、個々人の理想とする地域の未来と向き合う機会などを提供する。メディアやノルマ、トレンドに縛られない自由な思考がその場では展開される。

今、日本の地域が東京/欧米の価値観から独立するためには、そういったマクロレベルの場で対話することが最も重要なのではないかと私は考える。考えることを辞めた人間は悲惨だと思う。だが今の日本では思考停止状態でなければ生きにくいきらいもある。戦後復興を目指し日本人は働きすぎた。自殺者を生み出しすぎた。311も一つのきっかけとなり今、日本は、本当に人として価値ある生き方、暮らしを今一度見直す転換期に入ったのだと思う。

そして、そういった転換の中枢に位置する「家」でこそ「日本の現代美術」とは何なのかを今一度「好きか嫌いか」「欲しいか欲しくないか」の論点で議論してもらいたいと思う。そして、好きでない・欲しく無いアートへははっきりとNOの姿勢を示して欲しい。

これからは、欧米/東京が私たちへ押し付けてきた現代美術を簡単に容認するのではなく、地方地域がいいと思うアーティストを発掘し、支えることでそのアーティストを真の日本の現代美術作家として育て上げる必要がある。都市部とは異なる価値観を地方から発信すること。新しい日本の姿は、地方地域の姿そのものとなることが、真の日本の文化的独立に繋がると私は考える。

また「なぜ地方の住まいで若手アーティストの展覧会を開催するのか」を
若手アーティスト支援の視点から述べると理由は3つある。

1つめはそもそも、大多数の日本人は作品と暮らした経験が無い。
未経験の体験を得るため高額な作品代金を払う人はそういない。
まずは毎日の暮らしを通じた作品鑑賞体験の豊かさを
より多くの日本で暮らす人々と共有する必要がある。

2つめは、長時間鑑賞を通じたアイデンティティの覚醒。
作品と暮らしたことがないということは、作品を長時間鑑賞したことがないことと同義である。
作品の中には私たちの想像の範疇を遥かに超えた伏線が張り巡らされている。
その伏線1つ1つを理解することで、私たちは自身の生き方の大きなヒントを得ることになる。
そして、伏線は鑑賞者によって多様に変化するオリジナルなものである。
作品の長時間鑑賞を通じて発見されたオリジナルなメッセージが
自身の血肉となる楽しさを共有したい。

3つめは、1と2の旨味を知った方々へ、アート作品を鑑賞対象でなく購入対象として見る視点を持ってもらいたい。これは大変長期的な目標ではあるものの、まずは現代美術の定義を確立するところから日本は始めなければならないと思うので、焦らずこの人生を通じてじっくり行っていきたいと思う。

これらの理由から、
私は、日本の現代美術を欧米から独立させるために
地方の住まいで若手アーティストの展覧会を開催する。
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プロフィール

松岡詩美

Author:松岡詩美
卒業論文『東京型アートビジネス-ツールとしての現代美術-』

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